名所史跡
石川県銭屋五兵衛記念館
この地を拠点として活躍した、江戸時代の海の豪商・銭屋五兵衛を記念して、遺品や資料を保存展示している。
一代で築いた巨万の財産は、河北潟の埋め立て失敗や密貿易を理由に藩に没収されたが、その偉業はいまも尊敬をもって語り継がれている。館内には当時の箪笥や大福帳、算盤や望遠鏡等、銭屋家ゆかりの品を展示している。
記念館前庭園の風景。
大野湊神社
神亀4年(727年)陸奥の人、佐那が航海中に猿田彦大神の出現を感じ、海辺の大野庄真砂山竿林の神明社の傍らに一祠を建立し、勧請するをその創祀とする延喜式内社です。建長4年(1252年)社殿炎上のため、離宮八幡宮(現在の社地)に遷座されました。
加賀藩主前田家の尊崇篤く、大野庄(現金沢駅西地区)の神殿、神器の修築や寄進を受けております。海と湊の安全を守護し、交通安全、厄除け等に御神徳の高い大神様として厚い信仰を集めています。
神事能
青葉薫る新緑候、例祭(春祭り)の5月15日正午から大野湊神社の境内の能舞台では、四百年間、連綿と続く神事能が上演される。
この神事能の起源は古く、富樫の時代にはすでに上演されていたとの説もある。大野湊神社に伝わる古文章から見ると、七尾の小丸山から居城を移した利家は、天正十四年(1586)に、大野湊神社再興のために、田地二町を寄進して、宮腰村を始め近在の十五の村々を産子と定め、戦乱のために荒れ果てた大野湊神社を復興し、またその祭礼も復活させた。この時、神前へ奉納されていた舞楽もまた復活された。その当時は、まだ能舞台は正式に造られていなくて、むしろを敷いた上で上演されていたという。
神事能は、昭和60年に金沢市指定文化財(民族芸能)に指定された。
秋葉神社
鎮火社として建立され、金沢周辺に火の神を祀る寺社が無いため、当社には藩政時代しばしば鎮火の祈祷を命ぜられ、特に藩主前田氏の崇敬が厚かった事が知られている。
道入寺
当寺にまつわる江戸時代中頃の話「飴買い幽霊」が有名で、この話に登場する子供が大きくなり道玄と名乗り、七代目住職となり、道玄は母をしのび、画家の円山応挙に幽霊の姿をした母の絵を描いてもらったと言われ、現在もこの絵が当寺に所蔵されている。
今も息づく、宮越名水
専長寺
文明4年(1472)連如上人により「法運専ら長久なるべし」の意味で「専長寺」と名付けられ、度々の火災にあいながらも現在も残る。茶室は「松帆しゃ(しょうはんしゃ)」と呼び、銭屋五兵衛の隠居所にあったものである。
右写真は、松帆しゃを写したもの。
海月寺
銭屋五兵衛の屋敷に女中として住み込んでいた「お鉄」という娘が銭五没落の後、仏門に入り、銭五一族の菩提を弔うために釈迦堂に入り庵室を増築した。この寺には錢屋五兵衛の木像や三男要蔵の墓、そして二階には室生犀星が若い頃下宿をしていた部屋が残っている。
本龍寺
80歳で牢死した父五兵衛のため、出牢した長男喜太郎が建立した銭屋五兵衛の墓のほか、「奥の細道」の途中で金石を訪れた芭蕉が詠んだ句の碑や、藩政時代に宮腰への出入りを監視するために作られた監視窓がある。
監視窓の外観。
妙覚寺
元和4年(1618)聖徳太子の絵像と「妙覚寺」の寺号を賜り、寺宝として蓮如上人の御直筆、さらに親鸞聖人の孫にあたる如信上人の作と伝えられる張子の親鸞聖人像も保存されている。
龍源寺
本堂に揚げられている大額面は月舟の筆で、鎮火の効験があると伝えられ、天明3年(1783)の大火の時は庫裏は焼失したものの、本堂は火災から免れた。御本尊は左右に大聖文殊・大行普賢の菩薩が祀られている。